城下んひと

age29/IT系から接客へ/独立したいなァ

「テレビを嫌い」という人達へ

 

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http://blog.livedoor.jp/patrese1954/
こちらのページでは毎日のテレビ視聴率が載っている。

これによると、仕事が終わりリラックスしている時間帯(19時~22時代)、全局トータルで50%~70%(休日になると80%弱になることも)で概ね推移している。

録画しているものは含まれておらず、動画サイトで無断転載されているテレビ番組の視聴率も加算されていない。

それでも、日本人の半分はテレビを観ている計算になる。



だがネットではテレビを批判する内容ばかり。
この乖離はなんなんだろう。




まず批判内容で思いつくのは、「テレビは受動的で建設的ではない」や「テレビは騒がしいだけで面白く無い」という意見。

たしかにテレビに双方向性はない。バラエティも芸人さんが騒ぐことで、どうにか明るさを演出しているように見える。

しかし、逆の視点でみることもできる。

「受動的でも楽しめる」「騒がしいのでテンションが上がる」といった良さにも取ることが出来るのではないだろうか。

検索ワードを考えなければいけないネットからすると、受動性はテレビのメリットとも言いかえることができる。ストレスフリーで情報を得られるのだから。

騒がしさも、気分が落ち込んでいるときには救いになる。ひととき侘しさを紛らわせてくれる。

ネットだと落ち込んでいるときには、同じような悩みで検索してしまい、自縄自縛にかかりやすい。よけい落ち込んでしまうことも多い。

それでもネットがいいと思うか否かは、個人の気質の問題になるだろう。

そこは個人的に住み分ければいいだけの話、みなが同じ物差しで測れるものではないのだから、批判すべき対象としての選択が間違っているという気がする。

テレビ否定派の人が「受動的ではだめだ」「冷静にならないとだめだ」というのであれば、自己啓発セミナーみたいなもので、それこそ「勝手にやってて」という話になる。





また、受動的過ぎるという批判だけみれば、(少なくとも日本の)ネットで、相手への批判を乗り越えて、建設的な議論まで昇華できたケースは少ない。
自由を感じることも少ないのが現状ではないだろうか。

同じような年代で、同じような考えの人達が、不満を言い合っているだけならば、とても建設的ではない。有意義な議論は埋もれてしまうし逆の意見も言いにくくなる。

建設的な議論をもりあげる必要があるけれど、そうしたら出る杭とばかりに叩かれる。無視される。

それならば余程テレビのほうが建設的だ。

たとえば知らない人との話題にこまったときに、ナイターでやっていた地元のプロ野球チームの話をすれば、気まずい空気はひとまず無くなる。

昨晩のニュースにあった景気の話をすれば、好きな芸能人の話をすれば、相手の人となりも見えてくる。

初音ミクが好きだといっても相手も知っている保障はないが、AKBならテレビの知名度により相手も知っているという保障が担保できる。

テレビは、生まれた年代も、地位も、趣味も、まったく違う人と人とを、たとえ少しの間でも結びつけられるのだ。そこから生まれる繋がりは馬鹿にできない。

テレビは受動的であり、建設的ではないという批判は、広い視点で見れば外れていると思う。






「内容が下らない」「低レベル」という意見も目にする。

内容が下らないか否かでいえば、ネットのほうも下らない。

下世話な話題、誰の検証も受けていない未確認情報、陰湿な陰口、愚痴・不満、幼児ポルノ、軽薄な社会風刺。

もちろんそういった内容ではない良質のコンテンツも無数にあるが、話題になってるのは、おしなべて下らない話題が多い。

とてもテレビを馬鹿にできる内容ではないと思う。

テレビは相当の金と時間と人と手間暇をかけている。責任を負っている人もいる。

好き嫌いを別にして、内容の質でいえば、ネットにある人気動画よりテレビのほうが数段上だ。

それでも人々がネットを見るのは、自分の趣味とあっているものを探し出せるから。

裏返せば、テレビのコンテンツのほうが趣味に合っている人も世の中にはいる。(ネット上でテレビコンテンツの無断転用が絶えないのはそのため)

人の趣味はそれぞれ。その時の気分もそれぞれ。

同じ”下らない”メディアなら、批判するいわれは無くなる。





また、テレビをBGMとして点けてはいるが、コンテンツを楽しめるほどに至らないという人も多い。

だが、現実、大半の人はコンテンツを楽しんでいるのだと思ってる。

本当にテレビが好きでないなら、BGMとして利用したいと思えるはずもない。

ラジオでも音楽でもDVDでもPodcastでも、BGMに選択肢はある。わざわざ嫌いなコンテンツをBGMに選ぶ必要はない。

それでもテレビをBGMとして選ぶということは、心の底ではテレビが好きなのだろう。もしくは、好き嫌いが混在しており、トータルで好きなのだろう。

そういった人が、もしテレビにある部分部分の至らなさを、針小棒大に膨らませて批判するのならば、それはクレームに近いのではないだろうか。





最後に「テレビは(思想的に)偏っている」という意見も見られる。

つまり公平中立が何たるかをその人は理解しているらしい。

公平中立かを測る物差しはネットか書籍か新聞か。

ネットではありえない。Youtubeニコニコ動画で政治関連の動画を探せば、右か左に極端に偏った動画ばかり。ブログも同様に思想信条が色濃いものが多い。

SNSも似たような思想の人達が集まっているだけで、他者の検証をへているものは少ない。公平性とはかけ離れている。

書籍は、ひとりの人間の思想が反映されたものであり、公平性は無関係だ。公平性を確保するとなると、多人数での検証の内容も記述されなければいけないが、そういった書籍は少ない。

データに裏打ちされていても、結論の導き方には様々なアプローチがある。作者と似た思想の人が買い求めてしまうと、偏らないほうがおかしい。

新聞など、朝日と産経が同じ思想だと思っている人はいないだろう。

公平中立というのは相対的なもので、時代によって、人によって、変化するものだと思う。

テレビを一概に偏っているとは言い切れない。




閑話休題。

真面目くさってここまで書いてきたけど、どうしてそこまで書くのかといえば、テレビを擁護したいためではない。

テレビ批判の裏に見える「ネット至上主義」はおかしいのではないか?という気がした。

次世代のマスメディアはネットである。皆が発信者になりえる理想郷だ。偉そうな講釈ばかりのテレビはそのまま廃れろ。

だがネットだけでご飯を食べるのは、並大抵のことではない。コンテンツはすでに飽和状態で、限られたパイを醜く奪い合う激戦場という側面もある。

つまり一流の俳優を育てる地盤はないし、カリスマ性のある面白芸人も育てられない。気鋭のジャーナリストを育てる基盤も無い。

ネットでいくら頑張っても、それでご飯を食べられるのは極ごく限られている。Youtubeに自分の歌を披露することでやっているプロなどいない(いても限られている)

極論すると皆が皆、アマチュアだけの世界。理想郷なんだろうか?

テレビもネットも一長一短があって人の暮らしに必要なものだと思う。

それぞれのいいところを認めた上で、意見するならいいだろうけれども、一方的にテレビ批判に傾倒するのは、ちょっと間違っている。視聴率が50%もあるなら、テレビはまた隆盛を極める可能性だってある。それを先読みしたかのように「テレビはオワコン」で済ますのは、あまりに乱暴だと思う。






最後に余計なひとこと。

リアルの世界で「テレビ嫌い」って言ってイタくないのは、20代前半までだぞ!実体験済みだ!


技術立国日本は職人が作ったものではない

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日本は今でも先進国だと思うが、50年後はわからない。少子高齢化に多すぎる政府債務、近隣諸国との関係悪化に硬直した官僚組織、学力の低下傾向、挙げればキリがないほどの不安点に囲まれている。

政府がうまく舵取りをして、ある程度豊かのまま静かに死んでいく日本になるか。ハードランディングして瀕死の国になるか、くらいしか将来展望を描けない。

しかし、日本には世界でも類を見ない奇跡が起きた時代もあった。ひとつは明治時代、富国強兵策を邁進し半世紀で五大国に並べられるほど成長した日本。もうひとつは戦後の焼け野原から20年でGDP世界2位に踊りでた日本。この奇跡をもういちど起こすことが出来るのか?でなければ日本は誰からも相手にされないような中小国に落ちぶれてしまう。

この2つの奇跡には共通点がある。ひとつは中央集権化。ふたつめは工業化。最後は上司と部下の関係だ。

中央集権化とは、国家が国民の歩むべき道を定義付け、企業活動を後押しして、国全体で目標のために邁進すること。維新後は薩長の政治家が中心となり中央集権が進んだ。戦後は官僚組織が中心となり、日本株式会社といわれるまでの集団協調体制を敷いた。中央政府が自由勝手に何でも出来るというシステムを作っていた。そこで行ったのが、富国強兵の旗のもと殖産興業政策を邁進したことであり、戦後は護送船団方式をとり管理されたケインズ経済政策下で、所得倍増計画を打ち出したことになる。

要は、欧米諸国から技術を取り入れる。なけなしの金で工場を建て、多数の農村出身者を工場勤務に当たらせる。大量生産が可能となり、それを輸出することで、国力を増強させる。政府は、そういった企業に法整備や補助金などの形で保護政策をとることで、国全体を豊かにしようとする。産業構造の大転換をやるわけだから、中央政府の腕力がなければ成し遂げられない。

表面だけみれば、これが日本の奇跡の主因だ。しかし、それだけで良いのであれば、他国も同じように発展できるとも言える。世界には日本並の国がゴロゴロしていても良いはずだ。

五大国になるにも、GDPが2位になるにも、どこかの時点で欧米列強を追い越さなければ達成できない。技術コピーによる近代化を脱したら、それ以上の成長は不可能になる。欧米を追い抜くことは不可能なはずだが、日本は独自の技術開発によって、列強を押しのけるほどの成長を果たした。戦艦大和もウォークマンも独自技術がなければ作れない。この、他国にはなく、日本にはあった独自の技術発展は、どこから生まれたものだろう?

 

世間一般では、日本に「匠」や「職人」の精神が根付いているため、と解釈されているように思える。日本人はクリエイティビティが素晴らしいためと評されることもある。だが、「職人」は日本社会で活躍できているだろうか?「職人」は日本社会で尊敬されているだろうか?私はそうは思えない。

 

青色ダイオードを開発した中村修二氏が、勤め先相手に数百億の訴訟を起こしたのは記憶にあたらしい。世界的発見をしたとしても給料に反映されない日本の企業風土はどう考えればよいだろう。企業の役員に技術職出身者が少ないのはどう考えればよいだろうか。企業活動に不可欠な手だれの技術者が韓国中国企業にやすやすと引き抜かれていた歴史をどう思う?高齢の熟練工がいるが後継者が育たない、そんな中小企業は無数にある。

 

つまり現代の日本社会では「職人」を尊重する文化はほぼない。むしろ「偏屈」とか「扱いづらい」とか「世間知らず」といった見下げるような風潮すらあるような気がしてならない。それは過去に遡るにつれて色濃くなる。


「職人」の精神がベースに無いのならば、日本の急成長をささえた独自性とは何だろう。おそらく、それが、おそらく「上司」と「部下」の関係にあるのではないかと思うのだ。

維新後も戦後も、日本では大幅な人口上昇局面を迎えている。維新後は工業化によって人口が急上昇し、戦後は朝鮮特需と2度のベビーブームで人口が上昇している。日本の独自技術開発は、この増えた労働力によって成し遂げられたといっても過言ではない。彼らのことを「部下」とする。


そして、日本には特殊性がある。そんな大勢の人口を従えて、社会を動かしていたのが、武士であり戦前生まれだったという点だ。武士も戦前生まれも、多難な人生を歩んでいる。武士として生きているということは、はばからずも命を賭して君主に仕えるということだ。そのために長州征討やら戊辰・西南など多くの戦争をやりとげた。また戦前生まれの人々は大抵、軍国主義の薫陶を受けている。「玉砕覚悟で闘え」「二十歳まで命はないと思え」と言われて育ってきた世代なのだ。

人生を君主のために捧げる生き方は、強烈な精神力の根源となる。死ぬ覚悟があればなんでも出来てしまうということ。彼らは自分に厳しいが、人にも厳しい。そんな骨太の上司に指示されて、大勢の部下が命をすり減らして働いた。

つまるところ、死の覚悟を背景とした「上司」と、日本史上まれにみる大勢の「部下」の組み合わせによって、日本は奇跡の成長を成し遂げられたのではないだろうか。

技術の開発は、最終的には手間の数がものをいう。演繹的な思考実験だけで技術革新は成し遂げられない。帰納的につまりチャレンジし失敗を多く重ねての発見というものが必要不可欠だ。そのために2つの時代の「部下」と「上司」は筆舌に尽くしがたい努力をやってきたのだろう。言い換えれば、その努力を部下に強いるほど、上司にはリーダーシップがあったのだろう。だからこその、技術大国日本だと感じる。



そこで振り返ってみる。今後の日本に奇跡は起こるか?

今後は中央集権化は望めそうにない。やや遅きに失した「小さな政府」や「道州制」の論議が政治で幅を利かせている。「工業化」しようにも他国からとりこむべき技術など皆目わからない。そして何より今の時代、少子化が深刻だ。「部下」の数は少なく、気骨のある「上司」もいない。青年時代に「新人類」とよばれ、無気力で日和見過ぎると批判された世代が多くを占める。

どう考えても日本に奇跡が起こるはずがないと思えてきてしまう。もっとも、強烈な上下関係で邁進する社会もまた、幸せであるはずもないのだが。

北朝鮮の本当の思惑

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独裁者・金正恩第1書記が、核弾頭を搭載できる中距離・短距離弾道ミサイルを同時発射する準備を整えているというニュースが連日メディアを賑わしている。韓国全土を狙えるスカッド、日本全土を狙えるノドン、グアムを狙えるムスダン。この3つのミサイルで日米韓を威嚇している。が、未だ発射する気配がない。

 

北朝鮮は何を狙っているのか?ニュース等ではミサイル発射停止を求める各国と妥協点を探り、経済援助を得ようとしている狙いなどを協調している。しかし、北朝鮮は核ミサイル開発にお金をかけすぎている。前回打ち上げた時の開発費は人口全員の1年分のトウモロコシをまかなえるだけの額(600億円規模)。こんな量を軽々しく援助できる国など、現状では皆無だろう。

 

しかも、2009年国連で採択された制裁決議では、金融制裁を匂わせた文言がある。外務省のサイトによると、北朝鮮の核兵器製造に関わっているだろう世界の金融機関は、その口座の凍結・資産の移転を禁止すると明記されている。

 

2005年、アメリカによるマネーロンダリング摘発にみせかけたバンク・オブ・デルタ・アジアとの取引停止による効果は大きなものだったと言われている。バンク・オブ・デルタは北朝鮮関連の50の口座を凍結し、それにならい他国の金融機関も北朝鮮関連の口座を凍結した。北朝鮮は外貨建ての貿易が縮小し、高級品や兵器部品が国内に入ってこなくなった。金正日は当時の主席胡錦濤に、金融制裁によって体制が崩壊するかもしれない、と弱音をこぼしたと言われている。

 

それでも北朝鮮が持ちこたえたのは、中国を迂回しての輸入が出来たためだった。しかし今年1月に採択された国連決議には、前述したとおりの資産凍結が重ねて明記され、しかも中国までも採択に応じた。もし国連加盟国が文言通りに採択に従うならば、2005年どころではなく、すぐにでも北朝鮮幹部は体制転換に動き出すだろう。

 

制裁によって体制が壊れようとしているにも関わらず、北朝鮮はミサイル開発と実験を止めようとしない。さらなる制裁を招き、体制が危うくなるのは自明だが、それでも止めないのには、経済支援など比べ物にならないほどの得を得る算段があるということになる。とてつもなく大きな利益を手にする方法は何か?と、思いつくのはひとつしかなかった。北朝鮮主導による半島統一だけではないだろうか。

 

北朝鮮が軍事力をもって韓国を制圧してしまえば、今ある韓国資本をすべて手にすることができる。北朝鮮のGDPは250億ドル、対する韓国は11000億ドル。日本円にして100兆円の市場が即座に手にはいり、近代化されたインフラや工業技術も使い放題。韓国住民に重税をかせば、北朝鮮に積もり積もった負債も一気に帳消しだ。北朝鮮はこの一発逆転のために国際的孤立を招いても、核ミサイル技術を磨いてきたのではないだろうか。

 

そう考えると一連の北朝鮮の行動にも説明がつく。まず、半島統一のための第二次朝鮮戦争を起こしたとしても、現状そう簡単には韓国を併合することはできない。アメリカと中国の介入が避けられないためだ。北朝鮮主導の戦争は、この瞬間水泡に帰す。だからこそ北朝鮮は、アメリカと韓国を引き離したく思っている。そして、自身も中国から離れたく思っている。そのための核ミサイル開発なのではないだろうか。

 

このまま北朝鮮がミサイル開発を続け、アメリカ西海岸の都市を破壊できるようになったとしたら、とても強大な抑止力になる。アメリカは一般市民が核の危険にさらされる不利益を乗り越えても、戦争時に半島に軍を送ろうなどとは考えることはないだろう(という思惑があるのではないだろうか)

 

また、定期的にミサイルを打ち上げて、そのたびにアメリカを挑発するのにも理由が見いだせる。威嚇や挑発にアメリカが乗ってくれれば、武力衝突のひとつ手前まで行くことは避けられないが、そうやってアメリカが毅然とすればするほど、韓国の対アメリカ感情の悪化を招く。もしアメリカが北朝鮮に喧嘩を売り、北朝鮮がそれを買ったとしたら、まず火の海になるのはソウルである。アメリカ人は殆ど傷つかずに、韓国国民だけが多大な犠牲を払うことになるのだ。そういう前提があるのに、アメリカばかりが強行な姿勢を見せてしまえば、韓国国民の心はアメリカから離れていく。いいカッコばかりをするな、実際に傷つくのは我々韓国市民なのだ、となる。

 

さらにミサイル発射によって、日本・韓国の軍事力増強の動きは避けられなくなる。それを煙たがる中国も、北朝鮮から距離を置こうとしている。これは北朝鮮の思惑通りだろう。最近、中国の国境付近で北朝鮮軍の落下傘部隊が訓練をはじめた。中国によるミサイル開発への自制要求もことごとく無視している。北朝鮮は意図的に中国のメンツを潰し、意地悪をつづけることで、中国国民の対北朝鮮感情を悪化させているのではないだろうか。もし第二次朝鮮戦争を起こしても人民解放軍が介入できない(北朝鮮の味方をしたくない)中国国内世論を作り上げていると考えられないだろうか。

 

アメリカも中国も介入しないという前提が生まれれば、北朝鮮軍は韓国を破ってしまうかもしれない。大砲で首都ソウルを破壊し、国内を大混乱に陥れる。100万を超える陸軍部隊で各都市を制圧、住民を人質とし、さらに予備役兵900万人を動員してゲリラ戦を展開すれば、最新鋭兵器をもつ韓国も参ってしまう。

 

余談だが、そういったXデーがいつになるかといえば、2015年以降だと思う。その日まで北朝鮮は幾度と無く他国に挑発を重ねるのではないだろうか。

この年、韓国軍の指揮権が韓国に返還される(現在は朝鮮戦争の名残として、連合軍の長アメリカが指揮権を握っている)つまり韓国は自分たちの意志だけで、戦争すらできる状態となる。その後、もし左派政権が韓国内で生まれれば、否が応でも韓国はアメリカを冷遇するだろう。自分たちだけで国を守れるという自信が追い風となり、在韓米軍の縮小、あるいは撤退まで議題に登るかもしれない。

そうなったとき、北朝鮮軍は静かに動き出すはずだ。これまでのようにテレビで荒々しく宣戦布告を繰り返すこともなく、そっと背後から忍び寄るように人員を配置し、一挙に攻め上がってくるはずだ。

 

 

一見不可解な行動も、北朝鮮にこういった目的があるならば理性的に解釈できる。半島統一は北朝鮮にとって金日成時代からの悲願。そう簡単に諦めるはずはない。もしこれらが正しければ、北朝鮮は来る時に備えて、アメリカ・中国すらも自分の思った通りに動かし、巧妙に、着実に戦争の布石を打っているのだと思うのだ。